あなたのためよ

「今日はいつもよりお化粧頑張ってるね」と彼が言ったので、わたしは戸惑った。

「そんなことないよ」か「いつも通りだよ」かどちらが良いか一瞬考えた後、わたしの口からは「Its for you」と溢れていた。彼の目は少し驚いたように見えたけど、わたしは聞き返す隙も与えずに続けた。「ラブ・アクチュアリーっていう映画があってね」

彼の顔がこちらを向く。「パーティーで”綺麗だ”って好きな人に褒められた女の子がそう言うの。あなたのためよ、って。すごいよね。人生で自分のために綺麗に着飾ってくれる女の子が何人いると思う」まくしたてるようにわたしは言い、意味もなく彷徨っていた視線を彼に合わせた。彼は少し間を置いて、「で、お前はおれのために頑張ったの」と訊ねた。

視線が絡まる。見つめてみても、彼が何を考えているのかわからなかった。答えを催促するようにわたしを見つめ返す余裕のある彼が憎らしかった。ギブアップ。わたしに正解はわからない。「ノー」と短く言ってから、付け加える。「でも、人生で一度は言ってみたいセリフなの」

「かわいくねー。人生で一度は言ってみたいセリフなら、それ今言うべきだろ」彼は呆れたように言う。そうだよ、って言ったらあなたは喜んでくれるの、という言葉は喉元まで出てきかけたけれど、わたしはそれを飲み込んだ。「会うために化粧を頑張りたい相手が人生で何人いると思う」

「だから、おれでしょ」彼は笑った。その笑みが似合っている、と思ってしまう程度にわたしはどうかしている。「調子に乗らないで」と言うと、「泣きそうになりながらここまで来といてよく言うよ」と言われて、確かに説得力がないなと自分でも思った。彼はこれから飛行機に乗って、異国に旅立つのだ。本当に行っちゃうの、などと涙目で言い、どうしても見送りに行きたいと空港まで着いてきたのはわたしだ。

「…そうだね。最後にひとつだけ言っても良い?」

「最後なの?どうぞ」

「待ってるね」

はぁ、と彼は大げさにため息をついた。「それが一番聞きたかった」。じゃあ待ってて、と言う彼の瞳は今にも泣き出しそう、に見えた。「あとね、もういっこ」「最後じゃなかったのかよ」

「あなたのためだよ」彼の目はまた驚いたように見開かれて、わたしはお返しと言わんばかりに余裕ぶって笑ってみせた。彼はわたしの頭をくしゃくしゃと撫でる。わたしがそうされるのが好きじゃないと知っているくせに。

 

「じゃあ、行ってくるわ」

そう言って立ち上がった彼の手を掴んで、抵抗する間も与えずにハグをした。この体温を、匂いを覚えていたいと思った。わたしはいつ帰ってくるかわからない男をいつまでも待ってられるほどできた女じゃないかもしれない。でも、少なくとも今は、待ってるね、と言って笑って見送りたいのだ。

出国ゲートを越えて、後ろ姿が見えなくなるまで前に立っていた。待つ側と待たせる側では、流れる時間は違うんだろう。待ってるってことをわたしが忘れないうちに帰ってきてくれたら、今度はとびきりおめかしして迎えに来てあげる。そのときはちゃんと「あなたのためよ」と言うから。